いつもここにいるよ

あなたがいて、うれしいです

戦場はどこか遠い国ではなくて

 

 

戦場はどこか遠い国にあるのではなくて

いま、この場所。

 

戦争はどこかの国とどこかの国の争いではなくて

私とあなたのこと。

  

そして、

本当の戦場は

 私の胸の中。

   

何を

怖がっているんだろう

本当は

もっと簡単だったのに。

  

恐れという 武器を  置こう。 

いつも知らずに 手にしてしまうから

何度でも 置こう。

 

恐れの代わりに

手にしたいのは自由。  

 

何を怖がっているんだろう

恐れる必要はなかったはずなのに。 

 

きっと、

この戦場を

自由の地に変えられるはず。

  

 私たちは 

そのために出会ったのかも知れない。

  

戦場で

あなたの名前を呼ぶ

私たちは恐れては 愛にたどり着けない。

 

戦場で

あなたの 名前を呼ぶ。

 

 

 

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孤独と自由と美しさ

 

私の結婚の条件は「一人でいることを許してくれる」だ。

環境的に一人になる空間は必須条件で、精神的にも一人になることを認めて欲しい。

 

  

なぜこんなことを書きだしたかというと、以前にも書いた光野桃さんの「自由を着る」というエッセイの「孤独なとき、あなたは美しい」という文章にとても考えさせられたからだ。

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光野さんは孤独について、自分が求めようが拒もうが「孤独こそが人間の常態」だという。

さらに「孤独の意識は自分が人間だと自覚したときからはじまるのであって、自分が女だ男だという状態からは絶対に出てこないものなのだ」

「孤独とは独立した個人(人格)として広い世界に放たれた感じ」

という長沢節の言葉を引用している。(『孤独は愛と仕事を生む』長沢節

 

一人でいることが孤独ではない。人間としての自覚が孤独である。

そうした孤独は寂しいとか、恐ろしいというのでもない。

本には「本当の孤独を知ったとき、優しさが私のなかで息を吹き返した」とある。

 

一人で生まれ一人で死んでいく、生きているうちにも誰のせいにもできないことがやってくる。人間としての限界を受け入れ、自分の弱さや脆さを受け入れて生きる覚悟を持った時、本当の孤独を知るという。

自分の本質を知ることで他者の本質に潜む弱さや脆さに触れることができる。そうやって初めて自分をとりまく世界とも本当に出会えるのだろう。

その出会いは優しく、豊かで、生き生きと、自由に違いない。

そんな「自由」を着て生きる人は美しいに違いない。

 

 「孤独を引き受けてひとり立ったとき、美しいのだ。」

 

さて、私の「一人でいたい」はそれほどの覚悟があるのかというと自信がないが、周りのことに右往左往してしまってすっかり元気がなくなってしまう時、一人で自分の波長を感じていると元気になる。元気になると優しくなれる。今はこれでいいのかな。

 

猫鉢。彼も一人を大事にしている。

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青春はアツい。

息子が入っている学校の寮祭に行ってきました。

 

今日は真夏日で、火を使っている学生たちは大変そうでした。

男子学生が多いせいか屋台のメニューががっつり系が多かったです。

甘いクレープを求めていた主人。やっと見つけたら「ツナマヨクレープ」(;´・ω・)

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 なんか、懐かしい・・・

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焼きそばを詰めている、黒っぽいTシャツが息子です。

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寮祭あるあるの女装。昨年は息子も(-_-;)

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強い日差し以上に熱い青春。母は木陰で焼きそばをいただきます。

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「自由を着る」自分が清まる買い物

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ファッションジャーナリストでエッセイストでもある、光野桃さんが愛してやまない自分の定番の服、バッグ、靴、アクセサリーを紹介している本。

 

タイトルに惹かれ「大人テイストの自由なファッションの指南書?」のつもりで読んでみたのだけれど、これが奥が深かった。

42点のワードローブは光野さんが愛したこれまでの人生、生き方そのものだ。

 カバーの服は光野さんが自分の還暦のために用意した「ちゃんちゃんこ」!

 

目次を見ると、

「痛みを知ったパール」

「ショールという庭」

「刺繍と子宮」

「孤独なとき、あなたは美しい」

「ピンクを自分に許す」などなど・・言葉のセンスも素晴らしい。

 

ちょっと本文を引用。

 

パールは母貝の体内に異物が入ることによってできる、いわば痛みの産物であり、だからこそ悲しいほど美しいのだ、と教えられた。

つけるたび彼女が遺した、悲しみを通して浄められる、という言葉を思い出す。

                            「痛みを知ったパール」

 

また、「籠を育てる」では、 

籠作りは山にあけびの蔓を採りに行くことから始まり、山に入るときは山の神様に声をかけて取らしてもらうという籠作家の言葉に胸が震える、とある。

光野さんは、そんなふうに作られた籠を

「都会に住む者が浮ついた気持ちで買っていいとも思えない」「自分はその籠の持ち主にふさわしいかどうか」と考える。

そして『物を買って自分が清まらなければ物を持つ資格がない』という柳宗悦の言葉を引用しながら、物の魂と交わり、火花が散るようでなければ買ってはいけない、とまで書いてある。

 

私はちょうど連休に義母の荷物の片づけをしたこともあって、「物を持つ」ということについて考えていた時だったので、この言葉には考えさせられた。

 

身の周りを見渡せば気軽な買い物ばかりの我が家。せいぜいがお気に入り程度。

物と自分の魂が出会い、火花を散らすような買い物をしたことがないのは、物の魂に出会うべく私の魂がぼんやりしてしまっているからではないか。

  

お気に入りの物に出会い、手にすることもそれは楽しいことで素敵なことだと思う。

 でもそろそろ魂の火花を散らすような物と出会いたい。

柳宗悦の言う、持つことで「自分が清まるような」出会い・・・光野さんはそれを「恋に落ちる」と表現しているが、ああ、そんな恋に落ちてみたい!(=゚ω゚)ノ

 

この本を読んでいたら自分が出会えたわけでもないのに、涙の雫のような真珠が欲しくなり、持つほどに艶良く手に馴染むという和籠が欲しくなってしまった、なんと安易な私。

いつか、私の魂の準備が整ったら火花を散らすような物と出会えるだろうか。

その前に、せめて不要なものを整理しなければ・・・

  

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この本のタイトルにある「自由」についても考えさせられるものがあったので、次回に続きます。

はてなIDは語る?

 

みなさんの記事を読ませていただきながら、ふと、普段何気なく見ているみなさんのIDとニックネームが気になりだしました。

 

実際の日常での名前とは別に考えたもう一つの名前。

アイコンと合わせるとさらにみなさんのイメージが広がります。

 

「ああ、ピッタリ!」「なるほど、上手い!」と思うものや「これはどういう意味?」「この数字の意味は?」と謎解きのような楽しさも。

自由な選択の中で選んだ名前は、ブロガーさんのもう一つの記事(メッセージ)ように思えました。もしかしたら記事以上?

 

何気なくつけたようで、ブログに込められた思いが伝わります。

 

ちなみに私のley-lineは「古代の遺跡は地図上で直線につながるように建造されている」という仮説からとりました。

古代のネットワークのつながりを表す「妖精の鎖(ley)の軌跡」という意味が気に入っています。

何気なく考えたIDで、記事を書くときには特に意識ていませんでしたが、気がつくと「目に見えるものと目に見えないものとのつながり」みたいなテーマが多かった気がします。

 

 

でも今感じることは、記事のことよりも、ブロ友さんたちとの出会いがまさに私のley-lineだということです。

果てしないネット世界での偶然のような出会いが、実はずっと昔からつながるように約束されていたような・・・

 

記事という合図で呼び合い、つながった出会いは、リアルな生活では出会うことができない関係性を感じます。(ある意味こっちの方がリアルかも)

 

自分を発信することを決めて最初に考えた言葉であるみなさんのID、ニックネームの意味や由来をぜひ聞いてみたいです。

 

 

 

記事の更新がままならず、移り行く季節の中で写真だけが置いてけぼりになりそうなのでとりあえず写真をUPします。

 

 

うちの庭の花たちです。

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こちらは息子が入っている寮の庭で。

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群馬の榛名山福寿草

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茨城で食べたおいしいランチ。これでなんと750円!(コーヒーをだいぶ飲んでしまった(^^;)

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体調を崩している方が多いような気がします。お大事にしてください。

そういう我が家も連休明けに主人が寝込み、今日は娘が熱で休んでいます。これから病院に連れて行きます(-_-;)

放哉のひとり

 

 

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咳をしてもひとり

 

 

俳句のことはよく知りませんが、尾崎放哉のこの句は知っていました。

 

 

 尾崎放哉  1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日

東京帝国大学法学部を卒業、東洋生命(現朝日生命)保険に就職し出世コースを進んだエリートだったが、職も妻も捨て、寺を転々としながら俳句を詠む。

最後は小豆島の庵寺で極貧の中病に伏し、島の漁師夫妻の手に抱かれて41才で亡くなる。

 酒による失敗やクセのある性格から周囲とのトラブルも多かった。

                              (wikipediaと句集「放哉」から抜粋)

 

 

酒におぼれ、妻や親戚から見放され、友人だけでなく終の棲家と決めた島の住人にまで無心しながら、一方で学歴を鼻にかけていたと聞くと、私なら決して関わりをもちたくないタイプの人です。

 

でも、この句は衝撃でした。

何もない、のです。

 

まわりに誰も、何もない。ただ、ひとりなのです。

そのひとりも、寂しいとか哀しいとか嬉しいとか、高揚するものや打ちひしがれるものもありません。

 

こんなにそぎ落として、詠む句。

 

それなのにこの圧倒される感覚は何だろうか、とずっと思っていました。

 

句集「放哉 大空」を刊行した、彼の恩人でもある萩原井泉水の序の言葉を読み、ああ、そういうことなのかと腑に落ちました。

 

 ちょっと長いですが引用します。

 

その人の風格、その人の境地から生まれる芸術としての俳句は随一なものだと思ふ。

俳句は「あたま」だけでは出来ない、「才」だけでは出来ない、「上手さ」があるだけ、「巧みさ」があるだけの句は一時の喝采は博し得ようとも、やがて厭かれてしまふ。

作者の全人全心がにじみ出ているやうな句、もしくは作者の「わたくし」がすっかり消えているような句(この両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出る、小さい形に籠められた大きな味が出るのである。

 (中略)

而して、そのような本当の俳句を故尾崎放哉君に見出したのである。

 

 

「作者の全人全心がにじみ出ることと、作者の「わたくし」がすっかり消えていることは一つである」

 

これだったのです!

「わたくし」がすっかりなくなった時に初めて現れる、全人全心の「己」。

 

 

 二人や三人、の世界での一人ではない、「ひとり」

 私やあなた、の世界ではない、「ひとり」

 

そんな「ひとり」になったことはありませんが、なぜか惹かれるもの、憧れさえ感じます。

萩原井泉水が言う、何も持たなくなった時に、全てが与えられるような世界。

 

 

 

入れ物はない 両手でうける

 

 

蓄えておく入れ物を持たない者こそがうける、はかり知れない恵みを感じます。

 

かといって放哉は聖人ではなく、どうしようもない自分を知っていました。

その自分を抱え続けたからこそ、「わたくし」をすっかり消す瞬間をとらえられたように思います。

 

私の好きな句をもう一つ。

 

 

追っかけて 追いついた風の中

 

 

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YouTubeで放哉の句があったので、よかったらご覧ください。

www.youtube.com

「残心」春を送る

 

 

静岡はもうすっかり春が過ぎていますが、写真の整理をしていたら名残惜しくてUPです。

 

 

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(桜のはなびらが舞うのを喜ぶ姪っ子)

 

名残りを惜しむで思い出したのですが、先日新聞のコラムのタイトルが「残心」と書いて「おもてなし」とふりがなをつけていました。

弓道の残心は聞いたことがありましたが、「おもてなし」?と気になって少し調べてみました。

 

武道などでは技を決めた後でも気を抜かずに見届けること、相手に卑怯なことをせず、驕らず、高ぶらず、相手に感謝すること。

 

剣道の試合において一本取ったことを喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、驕り高ぶっていて残心がないとみなされ、一本を取り消されることがあるそうです。

 

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茶道では美しい所作の構えと、お客様の姿が見えなくなっても見送る、一期一会の心を教えているそうです。

 

何にても 置き付けかへる 手離れは

             恋しき人に わかるると知れ

(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)

 

                                (以上wikipediaより)

  

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この「残心」という概念は日本特有ではないか、と書いてあるサイトを見つけました。

 

それは正しく美しいことを継続するという意思と、相手を慮(おもんぱか)る優しい気持ちがあるのではなかろうか。

 

 

このサイトは武道関係でも茶道関係でも芸関係でもない、テクノロジー開発のサイトです。

「開発には残心が必要」という内容がとても良かったので紹介します。

 

techon.nikkeibp.co.jp

 

 

 

思いがけず「残心」という奥深い言葉を知ることができました。

 

「残心」はものごとをきちんと終え、新たな動きの前の静寂をつくること。

私にはそんなふうに思えました。

 

 

今夜の夕飯のおかずです。

たけのこと蕨を炊き合わせました。

残心で味わいます。

 

 

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