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「ダロウェイ夫人」バージニア・ウルフはやっぱり怖いかも・・・

ヴァージニア・ウルフは読みたいと思いながらなかなか読めずにいた。

灯台へ」を挫折し、「ダロウェイ夫人」をモチーフにした映画、「めぐり合う時間たち」を観た。

不思議で印象的な映画だったけど原作を読むにはつながらなかった。

 

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その後も、興味をもつ本のなかにウルフのナイフのような言葉を見つけるたびに、ますます「やはり原作を読まなければ」と思うのだが、なかなかハードルが高く、短編や講演記を読むにとどまっていた。

しかし、今回やっと「ダロウェイ夫人」を読んだ。(読めた!)

 

『ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った。』

という文章から始まる、1920年代の美しいロンドンの6月のある一日の物語。

朝から夜半までの一日の中に、クラリッサ(ダロウェイ夫人)を中心に、夫や昔の恋人、自殺する青年の人生が交差しながら40年の時が織りこまれている。

 

         f:id:ley-line:20150621172529j:plain  ヴァージニア・ウルフ 丹治 愛訳 集英社

 

 

彼女が挑戦した「意識の流れを追う」という文体は、(私たちの意識の流れを見つめればわかるように)今起きている事から昔の出来事に飛び、また突然目の前の人へ戻り、そこからイメージが広がり・・・と、時空を超えて自由に描かれる。

そしてそれが登場人物すべてにおいて描かれるものだから、まるで、それぞれの登場人物の意識の森へ迷い込んでしまうかのような気持ちになる。

この辺りが今までの挫折の原因だった・・・

 

しかし、ストーリーを追うというよりも登場人物の意識の流れに乗りながら、だんだん自分自身の意識の流れとも交差するような感覚になり始めたころからグッと引き込まれていった。

 

クラリッサ・ダロウェイは52歳になるところ。

議員の妻であり上流階級の社交界夫人として過ごしているが、自分はもっと違う世界の景色を持っていることにも気づいている。

昔、本当の自分を知っていた恋人ピーターを選ばずに、今の夫チャールズを結婚相手として選んだクラリッサ。

クラリッサが地直なチャールズを夫に選んだのは、ピーターと共有できる世界はピュアであるがゆえに危う過ぎて、実際の生活の中では持ちこたえられないとわかったからだと思う。

 

ピーターは大学を退学し、(案の定)結婚も仕事も失敗した男となって40年後に再びクラリッサの前に現れる。

社交界夫人として優雅に暮らすクラリッサをピーターがどう思うか、クラリッサには痛いほどわかり気持ちがざわつくが、気取られないように完璧な友人として振る舞う。

 

夫チャールズはピーターのようにクラリッサの魂を共有できないが、「彼女には支えが必要だ」と知っている。

愛しているとストレートの言えない距離間があるからこそ、夫婦としてつながっているのかのような二人。

 

ではクラリッサの魂の景色とはどういうものか。

 

「自分が木々や屋敷や納屋、一度も会ったことのない人とつながっていると感じる」「自分があらゆる場所に存在すると感じる」

 

と断片的に表現されている。

 

バスの座席を叩きながら『ここ、ここ、ここにいるだけじゃなく』(手を大きく振って)『わたしはあれ全部なのよ』

 

バージニア・ウルフ自身、『存在の瞬間』という自伝的な本の中で、幼少の頃小道の水たまりを前にして突然非現実的な感覚、(「自分は無である」)に襲われて、どうしてもその小さな水たまりを渡ることができなかったこと、玄関のドアの傍の花壇を見ていて突然「あれが統一なのだ」と悟ったという経験を語っている。

 

現実(と感じている)ものの背後に「何か真実なもの」があるという。

それは普段は隠れていて、まるでコットン・ウールに包まれた状態であるが、突然衝撃を受けるように現れる瞬間が訪れる。

包んでいたものが取り払われて、真実なものー彼女が『統一』『パターン』と呼ぶものーに触れる瞬間だ。

そして、その『統一』とは

『世界全体が一つの芸術作品であり、私たちはその芸術作品の一部だという考えである』

と説明している。

 

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「ダロウェイ夫人」に戻るが、クラリッサも現実の背後にある真実なものを知りつつ、自分が普段はコットン・ウールに包まれたような世界にいることを自覚して生活している。

 

そんな彼女が自分のバランスを取るかのように、作中に次のフレーズが何度か出てくる。

 

「もはや恐れるな、灼熱の太陽を、

    はげしい冬の嵐を。」       シェイクスピア『シンベリン』四幕二場

 

 彼女は6月のロンドンの美しく晴れた大気の中に”飛び込む”

それは魂の渇望を充足しようとするかのような、生命の喜びを味わう一瞬。

 

 

今日が明日へと当たり前のように続く、コットン・ウールに包まれたような生活を送りながら、クラリッサはその一瞬を味わうことで「それで充分」という。

 

元恋人のピーターも53歳を迎え、ほとんど他人を必要としなくなり公園で太陽を浴びている自分のことを「それで充分。充分すぎるぐらいだ。」とつぶやく。

 

充分だと言いながら、クラリッサもピーターもお互いへの魅力と苛立ちの葛藤を抱えながら危ういところを生きている。

 似た者同士のクラリッサとピーターが共に生きるのは、危険なことなのだ。

 

 

一方、夫のチャールズとの関係をあらわした文がある。

人には尊厳があり、孤独がある。夫婦の間にさえ深淵がある。それを尊重しなくては・・・

なぜなら私はそれを手放したくないし、夫の意志に反してそれを取り上げたくもないから。

そんなことをしたら、自分の孤立心や自尊心をーー結局、とても大切な何かを亡くしてしまう。

 

クラリッサにとって孤独は尊厳であり、深淵は精神の自立を守るものなのだ。

魂の<遍在>と<不滅>を感じる「瞬間」に身を投げいれることは「孤独」の中でしかあり得ない。

 

もう一人の象徴的な登場人物の青年。

戦争によって精神を病み、他人からは”幻視””幻聴”と言われる自分のビジョンが現実として優勢になり、それを守るために自殺する青年。そんな彼をクラリッサは「自分と似ている」と思う。

 

 

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バージニア・ウルフは「ダロウェイ夫人」の自序で、クラリッサの分身として意図された自殺する青年は第一稿においては存在しなかったと書いてある。

原案はクラリッサが自殺するかパーティの終りに死ぬ予定であったという。

 

青年を登場させ、彼の自殺を

「しかし、この自殺した青年はー大切なものをしっかり抱いて、身を投げたのだろうか」

とクラリッサに語らせる。

 

そして夜になって、パーティを開いている自分の屋敷から見える向いの家の窓に老女を見かける。

老女がゆっくり寝る支度をして、静かにベットに休むのを見ながら「魅力的な光景だ」と思う。

日常のありふれた光景。

クラリッサはコットン・ウールに包まれながらの人生、今日が明日へと続いて終わる人生も実はよい人生だと思ったのではないか。(そうではない瞬間を知っているからこそ)

 

ウルフはこの小説を書いた16年後59歳で入水自殺をするのだが、私は「ダロウェイ夫人」にウルフの中の再生を感じる。コットン・ウールに包まれた生活を、ウルフは本当に愛していたのではないだろうか。

 

ウルフを怖いなと思った場面。

夫のチャールズが社交界きっての重鎮である老女との昼食会に出席した帰り道の街角。逆向きの風がぶつかり合い、風がたがいにもみ合ったのを感じて立ち止まる場面。

 

それは老女からチャールズにつながるエネルギー(思念)が糸のようにどんどん伸びてぷつんと切れた瞬間(老女が眠り込んだから)であり、そして同時に午前と午後という二つの時の力が出逢う瞬間でもある。二つの力が旋風を巻き起こし、午後という別の時空に移り変わる一瞬として描いたシーン。

人間の意識の力と自然の意識の出会う一瞬だ。これにはまいった。

 

コットン・ウール(日常)の向こうの世界を見たバージニア・ウルフだから書けた瞬間だと思う。

この場面に出会えた時、私は「やっとウルフが読めた」と感じた。

 

ひと続きになった向こうの世界があるからこそ、こちらの様々な意識の流れは迷うことなく織りなされて一枚の絵になる。

その絵をウルフによってやっとみることができた時、やはりバージニア・ウルフは怖いと思った。20世紀文学の最高傑作といわれるのが肯ける。