数字ではない時間を教えてくれた ラオスのおばあさん。
昔、少しですがボランティアにかかわっていた時の思い出。
(写真は当時のものではありません。)
タイの難民キャンプ、スラム街、東北タイの干ばつ・・・
すべてはつながっているので、ひとつの問題にかかわると活動は自然に広がります。
ラオスの子どもたちに絵本を、というプロジェクトに参加したことがありました。
タイ国境の街ノーン・カーイまで行き、タイとラオスをつなぐ国境の橋フレンド・シップ・ブリッジでメコン川を渡り、ラオスの首都ビエンチャンに入りました。
ラオスはタイとはまた違い、ゆったりと静かで、内向的な人たち、食事もあまり辛くなく、かつてフランス領だったこともあってパンとコーヒーが美味しく、私はホッと息をついた気がしました。
そんな気がゆるんだ私に「ラオスの山岳民族の村に泊まって来い」とリーダーからのお達しが・・・
当時はまだ少し若かった私と、もう一人の私よりも若い女性に白羽の矢が当たりました。まだメンバーの誰も(男性も)泊まったことはないとのこと。「ええっ!」
(写真は当時のものではありません。)
昔は焼畑をしながら山岳地帯を移動して生活していたが、政策で定住を強いられた民族。
生活のために出稼ぎにでたり、生き方を見失った男の人たちは、昼間からアヘンを吸うことも。
女性も出稼ぎと称して人身売買に巻き込まれることも多い。
そんな説明を受けながらピックアップトラックに乗せられて約2時間。村に到着。村長さんらしき家にお世話になることに・・・
タイ語も英語も通じず(どちらにしても私はカタコトでしたが)全身を使ってコミュニケーションをするしかありません。
お世話になった家の奥さんは無口で、何かお手伝いしようと(身振りで)言っても困ったような顔をするだけ。確かに何も役に立たない私たちにできそうなことはないかもしれない。
それではと、子どもたちと遊ぶことにした。これならできる。
子どもたちも恥ずかしがり屋だが、私たちに興味深々・・・どこでもついてくる。
歌を教えてもらったり、見よう見まねで遊んで過ごした。(遊んでもらった?)
子どもたちのたくましいはだしのあしあとと、私たちののっぺらぼうな靴のあしあとが赤茶色した土に残っていたのを思い出す。
家族の中の男性達(おじいさんとお父さんと後はよくわからない・・・)と一緒に夕飯をいただく。
私たち客人の相手は男性陣の務めらしい。女性と子どもは後で別に食べたようだ。
よくわからないお酒もいただいた。かなり強かった。言葉が通じず、変なジェッシャーもできず、飲めないくせに、にこにこしながらちびちびお酒を飲んで時間を過ごした。
電気もないのですぐに就寝となる。正直ホッとした。
寝袋でもう一人の女性と、ご飯を食べたところの隅にある板の間に寝た。家族はどこに寝てるのかわからなかった。
私たちのために部屋を空けてくれたのかも知れない。
私たちが来たことは迷惑だったのではないかと思ってきた。
「先輩(一応私のこと)、目を開けてもつぶっても真っ暗ですね」
「うん、そうだね・・・」
「目をあいているのかつぶっているのかわかりませんよ」
「もう寝るしかないよ。おやすみ」 「おやすみなさい」
・・・・・・・・・・
「ひゃあぁ!!」
「どうした!?」
「先輩、何かが体の上をサーッて、走っていきましたよ!何?何?!」
「わかんないよ、寝るしかない・・・」
「先輩~、私たちだけ泊めるなんて、リーダーひどいと思いませんか?」
「・・・もう寝よう」
お酒が効いたのか私はそのまま眠ってしまった。
朝になって、眠れなかったらしい彼女はぐったりしていた。
翌日、スタッフの車が迎えに来るまでまた子どもたちと遊んで過ごした。
お昼過ぎに車が到着し、家族に帰りの挨拶をしようとしたら、スタッフが困った顔をしてきた。
「おばあさんが、もち米でちまきを作っていて、それが出来上がるまで帰るなって言うんだ」
「ちまき?」
「『ちまきが出来上がる時が、この人たちが帰る時だ』
ってきかないんだ・・・次の予定があって、時間が押しているんだけど困ったな・・・」
結局スタッフはおばあさんに負けて、ちまきが出来上がるまで待った。
温かいちまきの包みを手に、ピックアップトラックに揺られながら私は窓を向いて泣いていた。
「どうしてもっとおばあさんや奥さんと一緒にいなかったんだろう。
話せなくても、迷惑だったかも知れないけど・・・」
ちまきは確かこんな感じだった
あの内気なおばあさんが『ちまきが出来上がる時が、この人たちが帰る時だ』と言ってスタッフに頑としてきかなかった。
おばあさんの言う時間は、なんて温かく確かな時間なのだろう。
私たちが使っている数字の時間は、なんと無機質で不確かなことか。
いつも私は別れ際に大切なことに気づく。
そして後悔と共に私の心に深く刻まれる。
「数字ではない時間をどれだけ見つけられるか」
ボランティアを離れて自分の生き方を変えようと決心した思い出。
文字をもたない彼らは意味を文様で表わし、刺繍にします。
最近、私に山岳民族の村に泊まりに行くように言ってくれたボランティアのリーダーに15年ぶりに偶然会い、「俺の生きてるうちに遊びに来い」と言われた。
リーダーも数字ではない時間を言う。ゆっくり話しに行こうと思う。