「バス停に立ち 宇宙船を待つ」 友部正人
友部正人詩集「バス停に立ち 宇宙船を待つ」
「バス停に立ち 宇宙船を待つ」 友部正人
もうだいぶ前のことになるが
ぼくはバス停に立って宇宙船を待っていた
どうしてそんなことをしたかというと
歌が行き詰っていたからだ
ぼくの歌に乗り物がなかった
どこにも行けないような気がしていた
・・・・・・・・
結局宇宙船は来なかったが
宇宙船を待っている感覚だけが残った
・・・・・・・・
そしてぼくは今ニューヨークにいて
その感覚に乗って生きている
バス停で待つ必要はなかったんだ
感覚は個人的な乗り物である
・・・・・・・・
時代は滑りやすくなっているから要注意
ぼくたちは真夜中のバス停で
雨が降るのを待っています
友部さんは歌を創る時のインスピレーションを「宇宙船」と呼んでいるのでしょうか。
詩の中で「結局宇宙船(インスピレーション)は来なかった」と言っています。
でも宇宙船を待っている感覚が残り、その「感覚に乗って生きている」とは自分自身が宇宙船になってしまったようなものだと思います。
自分自身が宇宙船であるならばバス停は自分のための目印のようなもので、待つ場所ではありません。
詩人は自身がインスピレーションそのものです。
唐突ですが、友部さんのいう「待っている感覚」は「祈り」のようだと思いました。
「祈ることはフィーリングである」という言葉を思い出したからです。
たとえば干ばつの時の雨乞いの祈りは「雨が降るように」と祈るのではなく
「雨に祈る」のだそうです。「雨が降ることを祈れば、決して雨は降らない」と。
充分に雨を感じることで、実際に雨が降ることになるそうです。
感じることが祈りならば、私たちは自分で意識せずにたくさん祈っています。
そして、その祈りは実現してしまいます(!)
自分が何を感じているかをもっと大事にしなくては、と思います。
私たちが願うことそのもののフィーリング、意識してそれを持つこと。
私たちはそれを選択できるはず。
時代は滑りやすくなっているから要注意
ぼくたちは真夜中のバス停で
雨が降るのを待っています
友部さんが紡ぐ言葉は、私にとってまさにインスピレーションです。
またもやわけのわからない文になってしまいました。
今夜は雨がよく降っています。
エンヤの Echoes In Rain をどうぞ。
やんちゃ猫たち
今日は我が家のやんちゃ坊主たちを紹介します。
最近家族になったジョバンニこと「ジョビー」
とにかく何でも興味を持ちます。
パソコン関係は特に・・・
こちらは、ちょっとお兄さんのチビこと「ちーちゃん」
息子の学校のバックが大好き
『何か?』
この二匹
いつも一緒にいるくせに喧嘩ばかりします。(兄弟ではありません)
そして、遊び疲れて寝ます。
寝ます。(ちょっと恥ずかしい(。・・。)ポッ)
ちーちゃんお得意の寝かた。
あと二匹いますが、またの機会に・・・
バレンタインデー、和んでいただけましたでしょうか?(関係ないか)
心配はいらなかった。
陽ざしが明るくなった。
なんの根拠もなく
何が、というわけではなく
大丈夫だと思った。
なんの理由もなく
誰を、というのではなく
愛していると思った。
心配はいらなかった。
これでいいんだ、と思った。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの迷宮に迷う
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集を読んでいる。
アルゼンチン出身の作家・詩人(1899年8月24日 ー1986年6月14日)
夢や迷宮、無限と循環、架空の書物や作家、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られている。 (wikipedia)
すっかりボルヘスの迷宮に迷い込んでしまった。
たとえば
『砂の本』
見知らぬ男が本を売りにやってくる。
「砂の本」は砂でできているわけではないが、砂と同じく、はじめもなければ終わりもない。
最初のページを開こうとしても表紙と指の間には何枚ものページが挟まってしまう。最後のページも同じこと。
男は言う。
「この本のページはまさしく無限です。どのページも最初ではなく、また最後でもない。」
「もし空間が無限であるなら、我々は、空間のいかなる地点にも存在する。
もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。」
主人公はこの珍しい本を、値段のつけられない貴重な本と高額な代金を渡して手に入れる。
そして、同じページを二度と見ることがないという無限の本の虜となり、ほとんど家から出なくなっていしまう。
しかし、やがてその本は怪物だと気づく。
主人公は本を火で燃やしてしまうことを考えるが、無限の本を燃やせば、無限の火となることを畏れる。
どんな代価を払ってでも手に入れようとした「無限の本」は、実際に手にすると恐ろしい本だった。
主人公は考えあぐねて国立図書館の地下の棚にそっと隠し、二度とその街角には近寄らない、
という話。
たとえば
『エル・アレフ』
エル・アレフ、それは直径2,3センチの球体で、その中に宇宙空間がそのままの大きさですっぽり収まっているという。
「あの中には地上のすべての場所、それもあらゆる角度から見た場所が混乱することなく存在している」
鏡のように映し出されるエル・アレフの中に、地球のあらゆる時間と場所を見て、再び地球の中にエル・アレフを、またエル・アレフの中に地球を見る円環の世界。
ボルヘスは誰一人実際に見た人のいない秘められた推測上の物体、想像もつかない宇宙を見てめまいを覚え、泣く。
「私は限りない崇拝の念を、限りない哀れみを感じた。」
しかし、すべてを見たはずのボルヘスだったが、その後、見たものを忘れてしまう。
そして、「忘れてしまったものは見たと言えるのだろうか?」とボルヘスは問う。
私たちは自分ではとらえきれないものは、たとえ見たとしても忘れるようにできているようだ。
「誰も見たことがないもの」ということはこういうことなのかもしれないと思った。
ところが今度は
『ザーヒル』
ザーヒルはアラビア語で「明白な」「明らかな」という意味で、神の名の一つでもあり
≪一度出会ったら忘れるということができない恐ろしい力を備えた人間、あるいは物を言い、そのイメージは人を狂気に陥れる≫
という。
それは銅製の天体観測器であったり、一匹の虎、一枚の貨幣だったりする。
一度それを見た者は他のことは考えられなくなり、死ぬまでそのことを考え続けて破滅するといわれる。
それはまた、偶像、預言者であったとも説明される。
そんなものに出会ってしまったら、なんと恐ろしいだろうかと思うが、
ボルヘスはザーヒルにもう一つの意味を持たせる。
「もしわれわれが一輪の花を理解することができたら、自分がだれで、世界が何かがわかるだろう」
というテニソンの言葉を引用し、
どれほど取るに足らないものであっても、それはすべて、世界の歴史の原因と結果の無限の連鎖の結果であり、その中に宇宙そのものが完全な形で与えられているという。
ザーヒルは、もしかしたらそのものの中に完全な宇宙を見てしまう出来事を言うのかも知れない。
ザーヒルを見た者は、まもなくバラを見るだろう。
ザーヒルはバラの影であり、ヴェールの裂け目である。
イスラム神秘詩人アッタールの「神秘の書」の詩
ボルヘスの迷宮では、ザーヒルが怖いものなのか、憧れるべきものなのかわからなくなる。
それがボルヘスの怖いところ 。
解説によるとボルヘス自身が、連続的な時間から超越した強烈な体験をしたようだ。
川の流れのような連続する時間から解き放たれた、啓示的な瞬間、すなわち永遠の中に身を置くという体験。
ボルヘスにとって、この強烈な体験がまさにザーヒルなんだと思う。
この体験が、彼の作品を生み、読者に通常の時空間の意識をずらさせるような迷宮を作り上げる。
ボルヘスの迷宮で、時間と空間がすっかり脆弱になってしまった。
最後に、コールリッジがみたという幻想
ある人が、エデンの園を横切るという夢を見る。
夢の中で、確かに横切ったという証拠に一輪の花を与えられる。
目ざめてみると、
その花があった・・・
どうですか、ちょっと時空間がゆるんだ感じになったでしょう?
ならない?
春は来ている
まだまだ寒いけれど、春は来ている。
頼もしい生命の芽吹く春が
確かに来ている。
庭で写真をとっていると、ジョバンニが私に飛びついてきた。
そして、登る、のぼる・・・
今一番のやんちゃさん。
Vivaldi Spring The Four Seasons High Quality
出会いに感謝をこめて・・・
ブログを始めてから1年たちました。(1月25日がブログ誕生日)
何事も長続きしない私ですが、自分でもよく続いたと思っています。
感動した本や、映画、人物、音楽に出会うと、居てもたってもいられずにブログで紹介してきました。
そもそも偏った私の偏ったセレクト、偏った感想で、どれだけ受け入れられるかと思っています。
「ふーん」と思ってもらえれば上出来と思っていますが、スターや温かいコメントをいただくとやはり嬉しいです。
途中でスター、コメント欄について悩んだりもしましたが(ブログの中でも「はてな」のこの仕組みは特別のようですね)今はあまり決めてしまわずに、その時々で自分で変えていけばいいと思っています。
でも、スターやコメントはともかく、何を書くかはやはり悩みます。
どう思われるかを気にしていたら、何のために書いているかわからなくなってしまい、書く気もなくなりますが、できるならば伝わってほしいと思う気持ちは当然あります。
そうは言っても好みの違いもあるし、そこへきて拙い文章力ですからいつも苦労しています。このあたりを考え出すともうグルグルになってしまいます。
お互いに読むのもスルーするのも自由なはずと、自分に言い聞かせてここまできました。
ブログを書くのは、顔を合わせる事もなく、どんな人が読むかわからないネットという海に飛び込むようなものです。
慎重であるべきだと思いますが、防備を厚くしすぎて海の中の誰とも出会えず、ただ一人で漂うことはしたくありません。
いろいろなブログがあって、どこをどう泳いでいいのかわかりませんが、自分の想いを推進力に進めばきっと出会うべきところへたどり着けると思っています。
どこかで自分の想いの片割れが泳いでいるはずです。
この1年で、自分としては驚くほどの出会いがありました。
みなさんに出会えて、本当に嬉しいです。
たくさんの想いの片割れがみなさんと出会えて一つになることができました。
これからもあまり上手に泳ぐことはできませんが、自分の行きたいところへ泳いで行きたいと思います。
もしも見かけたら、私も勇気を出して声をかけますから、気軽に声をかけてくださいね。
そして、私が一人でおぼれそうになっていたら「あわてるな、力を抜け」って声をかけてください。
もうすぐ自分の想いの片割れに出会うはず。
これが私の泳ぐ推進力です。
プラネテス「愛し合うことはどうしてもやめられないんだ」
完全にネタばれで、私見いっぱいですのでご了承ください。
あらすじ
時代は2070年代(2075年以降)。人類は宇宙開発を進め、月面でのヘリウム3の採掘など、資源開発が商業規模で行われている。火星には実験居住施設もあり、木星・土星への有人探査計画も進んでいる。毎日、地上と宇宙とを結ぶ高々度旅客機は軌道上と宇宙とを往復し、宇宙ステーションや月面には多くの人たちが生活し、様々な仕事をしている。しかし、長い宇宙開発の歴史の影で生まれたスペースデブリ(宇宙空間のゴミ。廃棄された人工衛星や、ロケットの残骸など)は軌道上にあふれ、実際にたびたび旅客機と衝突事故を起こすなど、社会問題となっていた。
ハチマキの仕事の現場は宇宙服一枚隔てて広がる宇宙空間で、そのまま切り離されたら数分も生きることはできません。
あまりに広大なそれは誰にも平等に無慈悲な世界とも言えます。
そんな宇宙で働くハチマキの信条は
「独りで生きて、独りで死ぬ、それが完成された宇宙船員(船乗り)だ」
ハチマキの職場に新人の若い女の子、タナベが配属されてきます。
タナベは最初から
「独りで生きて、独りで死んで、なんで満足できるんですか、ばかみたい」
と真っ向から反発します。
「愛のない選択は決して良い結果になならない」というタナベにハチマキは
「便利な言葉だ。根性無しも、能無しも、卑怯者も『愛』って唱えりゃ許される」と認めません。
また物語では、地上の貧困・紛争問題は未解決のままで、宇宙開発の恩恵は、先進各国の独占状態にあります。このため貧困による僻みや思想的な理由付けによるテロの問題も、また未解決です。
「宇宙防衛戦線」と名乗る組織は、はじめは「人間は宇宙へ出るべきではなかった」と主張する宇宙自然環境保護団体でした。
地球の石油資源がなくなり代替エネルギーを求めての宇宙開発は、有限なエネルギーの上に築かれた文明であるといい、
破壊しつつ広がるというこの性質は驕慢と搾取の歴史であり、結果的には地球上の貧富の差が広まるだけであると主張します。
やがて活動は人類が宇宙につくった構築物を全て破壊する活動へと変わり、先進国の宇宙施設や宇宙基地を機雷を使った自爆で破壊するというテロ行為に進みます。
対する先進国は、「宇宙に秩序をもたらし、美しい宇宙を残すため」という聖戦を主張して真っ向から応戦します。
まるで今世界で起きていることがそのまま宇宙に拡大されたようです。
でも、宇宙に広がった戦いは「ケスラーシンドローム」という人類史上最大最悪の人災を引き起こすことになります。
衛星軌道上にある人工物(衛星)に人工物が衝突すると、相対速度が非常に大きいために大破して、多数の破片=スペースデブリを生じる。
その破片は衛星軌道上にばら撒かれることになり、そのため衝突確率が上昇する。
その破片が他の人工物に衝突すると、また新たに破片を生み、衝突確率が上昇し・・・という、悪循環に陥る。
こうなると衝突確率は次第に加速的に上昇していき、最終的に衛星軌道は破片に埋め尽くされ、いかなる手段を持ってしても、そこより外への宇宙空間へは往来不可能となるため、結果として人類は「地球に閉じ込められる」格好となってしまう。
自分たちが作り出した宇宙ゴミに地球が覆われてしまい、地球は宇宙と断絶されてしまうのです。
先進国やテロ組織という次元ではなく、地球そのものが存在できなくなってしまうのです。
これは未来のSF漫画なのでしょうか。
今現実に地球で起きていることではないでしょうか。
正義をかざして争いを繰り返しながら、私たちは命を、文化遺産を、自然を奪いながら自分の首を絞めています。
さて、物語にもどります。
あまりに広大で誰にも平等に無慈悲に見える宇宙空間に「愛」は存在するのでしょうか。
これは宇宙とは何なのか、なぜ私たちは宇宙にいるのか、まさに人間の根源を問う物語です。
なんでもひとりでやろうとするハチマキは、
「孤独も、苦痛も、不安も、後悔も、全部おれのもんだ。もったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ」
と自分の「愛してる」という想いを突っぱねます。
ところが、そんなハチマキが事故で臨死体験をして、自分の中に宇宙が広がっているのを見てしまいます。
「この世に宇宙の一部じゃないものなんてないのか。
俺すらつながっていて、それではじめて宇宙なのか」
「今まで見ていた宇宙は何だったのか」
私は、この「全てがつながっている」という体験こそが「愛」で、これでいいのかと思いました。
でもその先がありました。
ここがこの物語のすごいところだと思います。
ハチマキが到達した世界はこれまで彼を支配していた怒りや不安、あせりなどがつまらないことだと思える世界でしたが、
同時に、生きることの意味もわからなくなってしまう世界でもありました。
ハチマキは宇宙に出た人間がよくかかるという重い「宇宙病」に罹ってしまったのです。
虚無、死、矛盾、全ての時間と空間が存在し、問いであり同時に答えでもある世界・・・
「生きたまま来るような所じゃない」という世界をさまよいながら、抜けがらのようになったハチマキはまわり人のどんな働き掛けにも反応しなくなっていきます。
しかし、ハチマキは暗闇の底で、タナベに抱きしめられたことを思い出します。
テロリストを殺そうとした時「殺してはいけない」とタナベに抱きしめられ、相手を殺せなくなった時のことです。
そして、タナベのことを理解します。
「あいつは識(し)っているんだ。識(し)っていて表に出すことができるんだ」
「愛してる、何もかも、みんな愛してる」
という言葉でしか言えないこと・・・
ハチマキは独りで宇宙と向き合うことは危険なことなのだと識ります。
私たちがこの地球で、宇宙で、みんなつながって生きているのだという感覚で生きることができたら、争いや差別、貧困は起きないのではないかと、そしてそれは自分を救う生き方であると思います。
でも、まさに宇宙そのもののような感覚を生きるには、独りになっては危険だと言っているように思います。
私たちみんながつながってひとつである、ということは美しい言葉ですが、簡単なことではなく、本当に受け入れることはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。
私はまだ本当には受け入れられません。葛藤があります。
間違ってしまうと独り虚空をさまようか、とても危険な考えにもなりかねません。
私たちは実際に別々の体を持ち、違う考えや感情をを持って生きています。
そのかかわり合いの葛藤から逃げることをせずに、一人一人が「愛すること」を選択することができるために、それができるよう助けあうために出会っているのではないかと思います。
「愛」が独りでも存在するかどうかは私にはわかりません。
でも、「愛し合う」ことは独りではできないということはわかります。
ハチマキは言います。
「人間は愛し合うという、核融合なんて目じゃないスゲー力を持っているんだ。
素晴らしいことだし、恐ろしいことだとも思う。
オレはこの力の使い方をもっとうまくなりたいんだ」
ハチマキは志願して木星への到達という快挙を遂げたあと、もう一度宇宙のごみ<デブリ>の回収の仕事に戻ることを決めます。
テロとの戦いで果てしなくひろがる<デブリ>を、タナベと一緒にひとつずつ拾うという仕事をして生きようと決めます。
そして、たとえ勝てない喧嘩だと思っても見て見ぬふりをすることはできないと言います。
なぜなら、
「この宇宙にオレに関係ない人間なんか一人もいねーーーーんだ」
作者は別の登場人物に「気安く愛を口にするんじゃねえ」とも言わせます。
簡単なことではないことを知っていて、この物語をつくったのだと思います。
私は葛藤を抱えています。そして、ハチマキのようについ一人で何でもしようとするところがあります。
でもこれからは独りにはならずに、人とかかわって、助け合うことで、愛するという選択がひとつでも選べるようになりたいと思います。
そしてみんなと一緒に、みんながひとつにつながっているという素晴らしい世界を生きられたらと願います。
宇宙が無慈悲ではなく、叡智の海であることを信じて・・・
長くなってしまいました。ここまで読んでいただいて感謝します。
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