ホルヘ・ルイス・ボルヘスの迷宮に迷う
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集を読んでいる。
アルゼンチン出身の作家・詩人(1899年8月24日 ー1986年6月14日)
夢や迷宮、無限と循環、架空の書物や作家、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られている。 (wikipedia)
すっかりボルヘスの迷宮に迷い込んでしまった。
たとえば
『砂の本』
見知らぬ男が本を売りにやってくる。
「砂の本」は砂でできているわけではないが、砂と同じく、はじめもなければ終わりもない。
最初のページを開こうとしても表紙と指の間には何枚ものページが挟まってしまう。最後のページも同じこと。
男は言う。
「この本のページはまさしく無限です。どのページも最初ではなく、また最後でもない。」
「もし空間が無限であるなら、我々は、空間のいかなる地点にも存在する。
もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。」
主人公はこの珍しい本を、値段のつけられない貴重な本と高額な代金を渡して手に入れる。
そして、同じページを二度と見ることがないという無限の本の虜となり、ほとんど家から出なくなっていしまう。
しかし、やがてその本は怪物だと気づく。
主人公は本を火で燃やしてしまうことを考えるが、無限の本を燃やせば、無限の火となることを畏れる。
どんな代価を払ってでも手に入れようとした「無限の本」は、実際に手にすると恐ろしい本だった。
主人公は考えあぐねて国立図書館の地下の棚にそっと隠し、二度とその街角には近寄らない、
という話。
たとえば
『エル・アレフ』
エル・アレフ、それは直径2,3センチの球体で、その中に宇宙空間がそのままの大きさですっぽり収まっているという。
「あの中には地上のすべての場所、それもあらゆる角度から見た場所が混乱することなく存在している」
鏡のように映し出されるエル・アレフの中に、地球のあらゆる時間と場所を見て、再び地球の中にエル・アレフを、またエル・アレフの中に地球を見る円環の世界。
ボルヘスは誰一人実際に見た人のいない秘められた推測上の物体、想像もつかない宇宙を見てめまいを覚え、泣く。
「私は限りない崇拝の念を、限りない哀れみを感じた。」
しかし、すべてを見たはずのボルヘスだったが、その後、見たものを忘れてしまう。
そして、「忘れてしまったものは見たと言えるのだろうか?」とボルヘスは問う。
私たちは自分ではとらえきれないものは、たとえ見たとしても忘れるようにできているようだ。
「誰も見たことがないもの」ということはこういうことなのかもしれないと思った。
ところが今度は
『ザーヒル』
ザーヒルはアラビア語で「明白な」「明らかな」という意味で、神の名の一つでもあり
≪一度出会ったら忘れるということができない恐ろしい力を備えた人間、あるいは物を言い、そのイメージは人を狂気に陥れる≫
という。
それは銅製の天体観測器であったり、一匹の虎、一枚の貨幣だったりする。
一度それを見た者は他のことは考えられなくなり、死ぬまでそのことを考え続けて破滅するといわれる。
それはまた、偶像、預言者であったとも説明される。
そんなものに出会ってしまったら、なんと恐ろしいだろうかと思うが、
ボルヘスはザーヒルにもう一つの意味を持たせる。
「もしわれわれが一輪の花を理解することができたら、自分がだれで、世界が何かがわかるだろう」
というテニソンの言葉を引用し、
どれほど取るに足らないものであっても、それはすべて、世界の歴史の原因と結果の無限の連鎖の結果であり、その中に宇宙そのものが完全な形で与えられているという。
ザーヒルは、もしかしたらそのものの中に完全な宇宙を見てしまう出来事を言うのかも知れない。
ザーヒルを見た者は、まもなくバラを見るだろう。
ザーヒルはバラの影であり、ヴェールの裂け目である。
イスラム神秘詩人アッタールの「神秘の書」の詩
ボルヘスの迷宮では、ザーヒルが怖いものなのか、憧れるべきものなのかわからなくなる。
それがボルヘスの怖いところ 。
解説によるとボルヘス自身が、連続的な時間から超越した強烈な体験をしたようだ。
川の流れのような連続する時間から解き放たれた、啓示的な瞬間、すなわち永遠の中に身を置くという体験。
ボルヘスにとって、この強烈な体験がまさにザーヒルなんだと思う。
この体験が、彼の作品を生み、読者に通常の時空間の意識をずらさせるような迷宮を作り上げる。
ボルヘスの迷宮で、時間と空間がすっかり脆弱になってしまった。
最後に、コールリッジがみたという幻想
ある人が、エデンの園を横切るという夢を見る。
夢の中で、確かに横切ったという証拠に一輪の花を与えられる。
目ざめてみると、
その花があった・・・
どうですか、ちょっと時空間がゆるんだ感じになったでしょう?
ならない?