まちがい
草に すわる
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
前回にづづいて「草にすわる」という詩集からの紹介です。
29歳という若さで結核で亡くなった、八木重吉。クリスチャンでもあります。
詩集の題名になっている彼のこの詩を読んだ時、私には彼の草にすわる姿が祈りのように見えました。
同じ詩集の中に谷川俊太郎の「間違い」という詩があります。
間違い
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから
まわりはコンクリートしかないから
私は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座って私はぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ
間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて
彼の言う、間違いを知ることを拒む「コンクリート」とは何なのか。
間違いを気づかせないために座る「椅子」とは何なのか。
自分のまわりをコンクリートで覆い、椅子に自分の重さを預けながら、外側に間違いを探す私は、
決して自分の間違いを見つけることはないだろう。
八木重吉のように祈ることはできないだろう。
谷川俊太郎さんが言う「すべてがいちどきに瓦解しかねない」ような間違いがわかる祈り。
こんな幸せな祈り・・・
私は いつも 一番求めるものを 怖がっている。
言い訳をやめて 自分の膝をそのままに自分の両手でかかえて小さく座ったならば、
草が優しくうけとめてくれるだろうか。