「しつけにある程度の体罰は許される」の誤り
「しつけにある程度の体罰は許される」の誤り
先日山梨県立大学人間福祉学部の西澤哲先生の講演を聞く機会がありました。
その時の「しつけ」の意味にハッとさせられたので、忘れないように記事にします。
動物と違って、人間の赤ん坊はひとりでは何一つできない状態で生まれます。
誰かに世話をしてもらわなければ死んでしまいます。
おなかが空く、暑い、寒い、痛い、痒い、眠い・・・とにかく不快な感覚や感情が起きたら泣くというサインで知らせます。
すると誰かがそれを聞いて、声をかけ、何かを与え、抱っこし、温かくしたり、涼しくしたり、おむつを替え・・・と不快な状態から「快」の状態に回復させてあげます。
これを繰り返して行くことで、生まれたときにはなかった「自己調節機能」が芽生えるそうです。
世話をしてもらうことによって「快」になるという経験の記憶が蓄積され、3歳頃になると自分の力で「快」な状態へ戻ろうとする努力が始まり、自分を調整する機能が育っていきます。
つまり「不快」から「快」にしてもらえるという繰り返しによって、自分で自己調節ができる力が育つということです。
この自己調整への「援助」が<しつけ>だというのです。
こうした生後直後から始まる赤ちゃんのサインへの的確な対応や刺激、という援助の延長線上に「暴力はありえない」と西澤先生はおっしゃいます。
自己調節機能が育ち、ある種の行動を子どもが自分で「止められるように」するために行われる行為がしつけであり、主語は子どもです。
それに対し、ある種の行動を子どもに「止めさせる」ための行為が体罰で、主語は大人です。
しつけは自己調節の発達の促進で、体罰は行動の抑制や抑圧なのです。
罰によって抑制・抑圧された行動は罰(嫌悪刺激)がなくなれば当然表に出ます。
表にでるとまた罰が与えられ・・・という罰の繰り返しにより痛みや苦痛への「慣れ」が生まれるので、さらに罰の量や質がエスカレートしていきます。
つまり、体罰は「適切なしつけによる自己調節機能の発達」とは全く異なった性質であるということです。
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自分が困った時に助けてくれる人が必ずいるという信頼は、はじめはその人から片時も離れないことで確認します。そして成長するにしたがい、だんだん離れても大丈夫になります。
この時何が起きているのかというと、信頼する人(他者)が心の中に存在できるようになったのです。だから養育者から離れても冒険できるようになるのです。
こうした自分以外の人を自分の中に存在させることは、「共感性」が生まれることでもあります。
つまり、「パパ、ママはどう思うか?」を感じる心です。
それがやがて人の痛みを自分の痛みと感じる心に育っていくというのです。
自己調節機能が育っている大人がはたしてどれだけいるでしょうか。
私自身、とても自信ありません。かといって大人になって誰かのせいにしている場合ではないと思います。
大人になってからも安心や信頼を自分の中に育てられるよう心がけ、他者を自分の中に置けてこそ、はじめて子どもに「しつけ」られるのだと思いました。
謙虚に自分を育てていかなくては・・・
今までしつけについて「暴力が起こらないようなしつけ」というような考えでおり、どこか同じ延長線上に理解していたことに気づかされました。
体罰が良いか悪いかではなく、あくまでしつけとはどういうことかを知ることが大事だと思います。
もし罰を与えるならば、「今、自分は子どもの行動を止めさせようとしている」のだと自覚し、そこから「子どもが自分で止められるようにする」助けはどうすればよいかを探さなければと思いました。
明確にしつけの意味を教えてもらい、その大切さ、責任を強く感じました。
ちなみにしつけの語源は仏教用語の「習気」(じっけ)からきているそうです。
佳い香りが衣に沁みこむようになりたいです。
熏習(くんじゅう、(skt.) vaasanaa वासना、abhyaasa अभ्यास、bhaavanaa भावना)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う[1]。
薫習が身口意に現れたのを「現行法(げんぎょうほう)」といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気(じっけ)」という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という。