ここはやっぱり「海からの贈り物」 アン・モロウ・リンドバーグ
今まで本を読んで、尊敬したり、憧れたり、好きになった人たちがいっぱいいますが、「この人とと直に出会って、友人になりたい(こうして言うこともとても勇気のいることですが)」と切に思った人は実は意外に少なくて、二人です。ひとりは須賀敦子さん、もう一人はこの「海からの贈り物」を書いたアン・モロウ・リンドバーグです。
太平洋横断旅行に最初に成功したことで有名なリンドバーグ大佐の夫人。
夫人自身も、世界の女流飛行家の中では草分けの一人であり、夫とともに東洋に旅し、その記録を「翼よ、北に」(02年、みすず書房)にまとめた本の最終章で、日本語の「さよなら」が「そうであるなら」という意味だと知り、「これほど美しい別れの言葉を私は知らない」と書きました。
しかし本書では、経歴などというものを一切取り捨てた一人の女性、一人の主婦が、家庭から離れ、一人海辺で過ごした日々の中で、現代に生きる人間の誰もが直面しなければならないいくつかの重要な問題に思いをめぐらせ、海から授かった贈り物、貝たちに託しながら内省的に語ります。
私は何よりも先に、私自身と調和した状態でいたい
”恩寵とともに”ある状態で生きて行きたいのである。
彼女は海岸で拾う貝に人生を重ねていきます
ほら貝の簡素な美しさは私に、問題を解決するための第一歩は、自分の生活を簡易にし、不必要なものを捨て、気を散らすことのいくつかを切り捨てることなのだということを教えてくれる。
つめた貝は私たちに孤独を教える。
地上と、海と、空の美しさが私にとって前より意味があって、私はそれと一つになり、いわば宇宙の中に溶け込んで自分を見失い、それは寺院で多勢のものが讃美歌を歌うのを聴くのに似ていた。
私たち人間は皆、孤独な島であって、それらが同じ海の中にある。
日の出貝は華奢でさわるだけで壊れそうだ。この貝は、二人が出会ったときの最初の美しく純粋な瞬間を思い出させる。しかしその完璧な融合は、日の出貝がそうであるように容易に傷つき、人生や時間の経過の中で押し潰される。
長い結婚生活を表すのに適した貝は牡蠣である。
それぞれの生活を続けていく必要から生じた不恰好なでこぼこした独自の形をしている。しかししっかりと岩にくっついている。
たこぶねの貝は子供のためのゆりかごであって、子供たちが育って泳ぎ去ったあと、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。
たこぶねの名は黄金の羊毛を探しに行ったギリシャ神話の舟に由来している。
日の出貝や牡蠣の関係を超えて成熟した「人間と人間の、人間としての関係」である。そのためには、男も女もそれぞれに「自分だけで足りる世界」を持たなければならない。
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一人の静かな時間を過ごすことがどれだけ大事か・・・
「回転している車の軸が不動であるのと同様に、
精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂」
女はその生活を成しているいろいろな(遠心的な)活動の中心にあって、車の軸のように静かでなければならないのであり、自分が救われるためだけでなしに、家庭生活、また社会、そしてあるいは我々の文明さえもが救われるためにも、この静寂を得るのにかけて先駆をなさなければならない。
それは大規模な仕事や計画でなくてもいいが、自分でやるものでなくてはならなくて、朝、花瓶一つに花を活けるのことのように少しでも自分の内部に注意を向ける時間である。
・・・それは実際は男性的でも、女性的でもなくて、単に我々が今まで無視してきた人間的なものに過ぎないのである。そういう線に沿って成長することが我々を人間的に完全にし、各個人に自足した一つの世界になることを得させる。
彼女は長男が誘拐され死体で発見されるという、女性として、母親として、大きな試練を味わいながら、五人の子供を育てた上げた人でもあります。
そうした彼女が語る「一人の時間」「自由」だからこそ、深く、揺るぎのないものとして私に迫ります。
人生を重ね牡蠣の状態を脱した時、住み慣れた貝を離れて大海に向かった「たこぶね」の自由・・・
我々が新たに大海で出会うものは何だろうか・・・
どんな黄金の羊毛があるのだろう・・・
それは何か新たな成長、新しい人間と人間の関係なのだろうか・・・
私たちは何を選ぶのでも、大概の場合、既に知られているものを取り、未知のものに向かうことは稀にしかない。未知のものは私たちを不愉快にさせたり、落胆させたり、恐れさせるからだが、私たちを本当に豊かにしてくれるのは凡てそういう、未知のものなのである。
女は自分で大人にならなければならない
年を重ねたから「たこぶね」になるわけではなく、自分でならなければなれないのです。他の貝になってもいいわけですが、彼女は「たこぶね」を選びました。
その選択が、どんなに自分でおこがましいとわかっていても、「友として出会いたい人」とさせてしまうのです。