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読むことは実は恐ろしいことかも知れない

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佐々木 中  「切りとれ、あの祈る手を」
            ・・・<本>と<革命>をめぐる五つの夜話・・・
 
佐々木氏は本を読むことは自分の中に変革が起き、生き方が変わらざるを得なくなり、その生き方がさざ波のように他の人に影響を与える。歴史上の大きな革命もたった一人が本を読んでしまったことから起きた、と語ります。
革命というとどうしても暴力、流血、惨劇を思い浮かべますが、彼は「革命の本義はそんなことにない。われわれは別の革命を生きることが可能である」と・・・
  
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「いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。
その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、
ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。
その夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかも知れない。」 ニーチェ
                              (p.206)
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(自分の中に)革命を起こすような”読み方”を私はしているだろうか・・・
 佐々木中氏は「読む」ことについて、
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本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。何故人は本をまともに受け取らないのか。本に書いてあることをそのまま受け取らないのか。読んで正しいと思ったのに、そのままに受け取らず、「情報」というフィルターにかけて無害化してしまうのか。おわかりですね。狂ってしまうからです。(p. 29)
 
「読むことは『祈りであり、瞑想であり、試練』である」    ルター      
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「私たちがその本に近づいてゆく途中でどんなに曲がりくねり、のらりくらりし、ぐずぐずし、ぶらぶらしようとも、最後には孤独な戦いが私たちを待っている。
その先にどんな取引が可能になるとしても、その前に作者と読者の間で処理しなければならない一つの仕事がある。」  ヴァージニア・ウルフ  (p.38)
 
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 しかし、ヴァージニア・ウルフのすごいところは、徹底的に読むという作業は”孤独な戦い”であると言いきったうえで、あっさりとこう書きます。 
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 でも、どんなに望ましかろうと、ある目的を果たすために読書をする人がいるでしょうか?それ自体が楽しいから、それを行うという楽しみは世の中にないのでしょうか?目的そのものである楽しみというのはというのはないのでしょうか?読書はそうしたものの一つではないでしょうか?少なくとも私は時として次のようなことを夢見るのです。
 最後の審判の日の朝がきて、偉大な征服者、法律家、政治家たちが彼らの報いー宝冠、月桂冠、不滅の大理石に永遠に刻まれた名前などーを受けにやってくるとき、神は、私たちが脇の下に本を挟んでやって来るのをご覧になって、使徒ペテロのほうに顔を向けられ、羨望の念をいくらかこめて、こう言われるでしょう、
「さて、この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったから」                       (p.41)
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ベケット、ツエラン、ヘンリー・ミラー、ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ヴァレリー、ニーチェフーコー、ルジャンド、ドゥルーズラカン・・・彼らがいてくれなければ、私は何をして生きていたらいいのかもわからなかった」
狂うほどに”読み”、”書く”佐々木氏は、前述のニーチェの『ふと開いた本の一行の微かな助け』を友の足音として聞きます。
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「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」
                          ヴァルター・ベンヤミン
 
「足音を聞いてしまったわけでしょう。助けてもらってしまったわけでしょう。なら、誰の助けになるかもわからないし、もしかして誰にも聞こえないかもしれない。
足音を立てることすら、拒まれてしまうかもしれない。けれど、それでも足音を響かせなくてはならないはずです。響かせようとしなくてはならないはずです。一歩でもいいから。」                                                     (p.205)
  
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「読んだ、というより、読んでしまった。読んでしまった以上、そこにそう書いてある以上、その一行がどうしても正しいとしか思えない以上、その文言が白い面(おもて)に燦然とかぐろく輝くかに見えてしまった以上、その言葉にこそ導かれて生きる他はない。」                         (p. 26)

「繰り返し読むということは、まともに受け止めるしかなくなるということです。そしてそのように生きるしかなくなるということでもある。」    (p. 33)

 

 「燦然と輝く言葉」を「読んでしまった」ならば、「”情報”というフィルターにかけ  て無害化」してしまわず、にそれを「生きる」ように・・・

   そうなりたくてブログを始めたのかも知れないと、今思いました。

  この本の題名はパウル・ツエラン「光輝強迫」の中の詩の引用だそうで、この詩  についてはまた次回にします。